低線量被ばくリスクWG主査長瀧重信氏の科学論を批判する

低線量被ばくに対する政府の対策の基本をどう定めるのか、細野豪志「原発事故の収束及び再発防止」担当大臣の要請で、放射性物質汚染対策顧問会議(8月25日、内閣官房設置)が「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」(以下低線量WGと略記)を設置した。

この低線量WGは「国内外の科学的知見や評価の整理、現場の課題の抽出、今後の対応の方向性の検討を行う場として」設けられたもので、主査は長瀧重信氏と前川和彦氏である。11月15日から8回にわたる会合をもった。討議の結果は、12月22日、「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ報告書」として公表された。http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/twg/111222a.pdf

放射線被ばく防護に関する国際的協議機関であるICRPは緊急時から復旧期に移行した段階で1~20mSvのどこかに「参考レベル」を設定するように勧告している。5mSvにも10mSvにもすることができるが、この低線量WGの報告書は日本政府にこれを20mSvとするよう指示したものである。

主査の一人、長瀧重信氏は元長崎大学教授で山下俊一氏と同分野の先任者であり、その前は放射線影響研究所の理事長を務めた人物である。前川和彦氏(東京大学名誉教授、放射線医学総合研究所緊急被ばく医療ネットワーク会議委員長)はもともと放射線医学の専門ではなく救急医療の専門家だ。JCO事故の際、放射線被ばくに関わるようになった(NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命――被曝治療83日間の記録』岩波書店、2002年、新潮文庫版、2006年、p.14)。緊急被ばくについてはそれ以後、少しは詳しくなったかもしれないが、放射線被ばくについての関わりが短い上に、低線量被ばくについては研究に携わったことはない。したがって、このWGの審議をリードしたのは、放影研や長崎大学に勤務し、チェルノブイリの調査にも加わって低線量被ばく問題に長期に関わってきた長瀧重信氏と見るのが順当だろう。

このWGの他のメンバーは、遠藤啓吾(京都医療科学大学学長、日本医学放射線学会副理事長)。神谷研二(福島県立医科大学副学長、広島大学原爆放射線医科学研究所長)、近藤駿介(原子力委員会委員長、東京大学名誉教授)、酒井一夫(放射線医学総合研究所 放射線防護研究センター長、東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻客員教授)、佐々木康人(日本アイソトープ協会常務理事、前放射線医学総合研究所理事長)、高橋知之(薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会放射性物質対策部会委員、京都大学准教授)である。

多くのメンバーはこれまで低線量被ばくによるリスクは小さいということを強調してきた人々であり、それは首相官邸HPの原子力災害専門家グループのコメントを見ると明らかである。http://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka.html したがって、日本弁護士連合会(日弁連)が「政府に対し、閉ざされた「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」を即時に中止して、多様な専門家、市民・NGO代表、マスコミ関係 者の参加の下で、真に公正で国民に開かれた議論の場を新たに設定し、予防原則に基づく低線量被ばくのリスク管理の在り方についての社会的合意を形成するこ とを強く求めるものである」との会長声明を11月25日付けで出しているのもよく理解できるところだ。http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2011/111125.html

実際、「低線量被ばくのリスク管理に関するWG報告書」はICRPの勧告の範囲でもっとも高い許容被曝線量20mSvを設定した。それでよいという理由を言うために楽観論に都合のよい情報をあれこれと持ち出し、都合の悪い情報は隠されていると私は考えている。これまで低線量被ばくの健康影響について多くの情報が提示され、科学者の見解も分かれることがよく知られてきたが、それについてはほとんど触れられていない。この内容では、福島県の住民をはじめ、多くの国民がこの報告書に納得できない思いをもつのは当然だろう。

この報告書がまとめられるのとほぼ同じ時期に、医学情報誌にこの報告書をまとめる中心人物である長瀧重信氏が自らの考えを積極的に示した論考が掲載された。それは『医学のあゆみ』239(10)(12月3日刊)で、長瀧重信氏の企画で「原発事故の健康リスクとリスク・コミュニケーション」を特集しており、その冒頭に同氏の「はじめに」が置かれている。http://www.ishiyaku.co.jp/magazines/ayumi/AyumiBookDetail.aspx?BC=923910

以下、この論考について検討し、低線量被ばくWGの審議の進め方やその報告書にの背後にある考え方が大きな問題を抱えたものであることを明らかにしていきたい。

(1)自由な科学的討議よりも国際的合意を優先すべき

長瀧氏は2011年後半現在の日本社会で、この問題について自由な科学的討議はなされるべきではないと主張する。「様々な主張が科学の名前で発表されると社会は混乱する」。「国際的にはこのような混乱を避ける必要性から、放射線の影響について純粋に科学的な知見に関する国際的な合意を定期的に報告するという習慣が確立されている」。

そもそもこれは驚くべき宣言であり、そもそも科学は捨てられているとして、ここで読むのをやめてしまう人もいるだろう。だが、以下では辛抱強く、いちおう長瀧氏の論旨に目を通し、それにそって検討を進めていく。

長瀧氏がいう「純粋に科学的な知見」とは何だろうか?誰が「国際的な合意」を決定するのだろうか?長瀧氏は「この科学のみ(個人的、政治的、社会的主張にではなく)に基づいた国際的な合意」というのだが、科学に「合意」なとあるのだろうか。科学においては複雑な問題につき多様な見解が並存するのが当然である。そもそも合意は政治的・社会的な事柄ではないだろうか。また、「純粋」なとはどういうことか。科学に「不純」であるか「科学のみ」であるかの違いがあるとして、それは誰が決めるのだろうか。

大多数の科学者が賛成するであろう科学的知見はもちろんある。他方、科学的にも多様な捉え方があって一致できない科学的問題領域もある。政治的社会的に問題が生じるので、科学的な討議は横においておき、国際的に合意されねばならないような事柄もあるかもしれない。もし統一された「純粋な科学」というものがあるとすれば、国際的合意など必要だろうか。「純粋な科学」で一致できないから政治的社会的な合意が求められるのではないだろうか。

長瀧氏は次のように言う。「この合意に対抗できる研究結果をもつ……専門家は世界のどこにもいない。したがって科学者は,個人の主義主張とは別に,この国際的な純粋に科学的な合意を一致して社会に説明する義務がある……」。「合意」について疑問があるとしても、「対抗できる」はずはないという。そこで、科学者が個人の科学的見解を述べることも許されないことになる。それは「主義主張」なのだと。国際合意に対して科学的な異論をするなら、それは個人的な「主義主張」なのだから排除されるべきだということになる。

この「科学」ついての議論は「科学」理解としてまったく妥当でない。科学的に真実を求めることよりも政治的な力による「合意」と統一を尊び、異論を唱えることを慎むことを勧めるものだ。これは、「純粋な科学の国際合意」を掲げ、自由な学問・言論を封殺しようとするものではないだろうか。

(2)専門「科学者」がもつとされる強い権限

こうした議論を正当化するために、長瀧氏は「学問」「科学」「“科学”」の表記を使い分けている。氏にとり「科学」は神聖な権威なので「学問」「“科学”と区別」しなくてはならないのだ。

「もちろん、学問上の議論は、科学の進歩のために大いに推奨されるべきであり、現実に世界中で膨大な研究が遂行されている。しかし、様々な主張が科学の名前で社会に直接に伝わることで混乱を招く状況下では、“科学”的な結論が下されるまでの議論は、まず責任を持って科学者の間で行うべきである」。

これは専門科学者が定めた「科学的事実」による政治的な意志統一を重視し、市民(や多分野の科学者)がそれに従うことを求める論述である。広い範囲の科学者(学者)は情報多元化を避けて討議を控えよと言う一方、「専門の」科学者(ということだろう)の内だけで議論をせよというのだ。

「責任を持って科学者の間で」討議せよという場合の「科学者」は長瀧氏が考える「専門家」ということだろう。だから長瀧・前川氏による低線量被ばくリスクWGは、異論をもつ科学者である児玉龍彦氏や木村真三氏は招いたが、その主張内容はほとんど反映させなかった。また、倫理・ 社会の観点はリスク心理学の中谷内一也氏のみで、被災者である福島県民も招かなかったのだ。

では、これはICRP(国際放射線防護委員会)の勧告にそったものだろうか。ICRPは現存被ばく状況で20mSv以下の参考レベルを決めるについては「最適化」optimizationの原則を守れと言っている。つまり、「すべての被曝は、経済的及び社会的な要因を考慮に入れながら合理的に達成できる限り、低く保たなければならない」のだ。低線量被ばくリスクWGはICRPの勧告にそって参考レベルを討議する任務を負うつもりだったはずだ。だが、ICRPはそういう問題を専門科学者だけで討議せよなどと言っていないからだ。

これに対して、長瀧氏は異常に強い権限が専門「科学者」にあると考えている。「その上で、社会に対して 発せられる科学者からの提言は、一致したものでなければならない」。ここでは図らずも、科学者からの「提言」となっている。この種の問題では科学が一致した見解に達し得ず、ポリシーについての「提言」であらざるをえないことを認めているかに見える。

ところが すぐに転じて科学者は国際的合意を社会に示せという。そしてその後で国際的合意は「科学的事実」なのだという。

「科学者にまず求められるのは、国際的に合意が得られている過去の知見を、分かりやすく社会に示すことである。科学的事実とされるもののうち①国際的に合意されている事項はどこまでなのか」を明確に表明し、②合意に達していない部分は「科学的に不確実、あるいは不明である」と一致して社会に示す必要がある」。

ここでの「科学的事実」という言葉使いは国語として適切だろうか。「科学的言明」というべきだと私は考える。科学的言明のうち大多数の科学者が承認しているものとそうでないものを分けることと、国際機関で合意されたものとそうでないものを分けることは異なる。長瀧氏は後者をあたかも前者であるかのように言いくるめようとしており、そのためにたいへん無理な論述になってしまっているのだ。

(3)UNSCEARこそが唯一正しい科学言明の機関?

長瀧氏はUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)が合意したものがほとんどの科学者が承認できる科学的言明であるかのように言うが、これは事実と異なる。国連の委員会に顔を出すのは国家が選び、そのときの政府がよしとする科学者である。

この分野に精通した歴史家は、この委員会は核大国等、原発を推進する国家の代表が主導権を握り、その線での政治的合意が求められたものと捉えている。(中川保雄『増補版 放射線被曝の歴史』明石書店、2011年)。国連は核の「平和利用」を唱える常任理事国(核兵器保有国)の意志の下、放射線被曝の過小評価を歓迎する体制を形作ってきた。日本は核保有国ではないが、原爆被爆国の日本が被曝影響の過小評価に協力するようアメリカはあらゆる工作を行って来たことが明らかにされてきている(笹本征男『米軍占領下の原爆調査――原爆加害国になった日本』新幹社、1995年、高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ――米核実験と民間防衛計画』凱風社、2008年等)。

しかしそのような政治的圧力にもかかわらず、各国でも被曝影響の過小評価に反対する多くの科学者・研究者がおり、国や電力会社等、大組織の支援を受けにくい状況で研究している。大組織に近い科学者の知見がいいかげんで、大組織に遠い科学者の知見が信頼できる例は少なくない。このことは福島原発事故以後の日本でよく見えるようになって来たことだ。

UNSCEARのみが「国際的に純粋に科学的な合意」機関とするのは、そもそもこうした事実を隠し、市民を欺くものである。他の科学分野で国連委員会が権威をもつ例などあるか?それぞれに科学者が構成する国際学会があり自由な討議を行い合意など求めない。ただ、各国学会 は倫理的政治的問題に関わらざるをえない時に科学討議とは別に倫理委員会等を設ける。国連が本来、設けるべきはそのような国際的な倫理委員会ではなかっただろうか。

UNSCEARが提示するものが「純粋な科学」だとする長瀧氏は、「一般の方々に「何を信じればよいのか分からない」という不安感」をもたらす主な要因は異論があることだとする。そうだろうか。公明正大に異論が提示され、その上で倫理的政治的な判断が行われるのであれば、異論は残っても政府や科学者への大きな疑惑は残らない。多くの科学的・学術的異論があることを否定し、政府周辺の科学情報だけが公明正大であるとすることこそが疑いを招き、信頼感の喪失を深めるのだ。

USCEARは国際的な協議機関の例だが、各国レベルのことを考えるとよい。各国学会は倫理的・政治的・社会的問題につき学会として合意することがある。たとえば、日本産科婦人科学会は生殖補助医療について度々、会告を出しているが、倫理委委員会には多様な分野から委員が招かれる。日本学術会議ではこの問題につき、多分野の学者を招いて討議を行ったが、産婦人科医がそのメンバーの一部であるにすぎない。

だが、こうした委員会が科学的言明につき科学者の自由を束縛するような合意を行うことはない。科学的言明については自由な討議がなされるだけで、政治的な合意などはありえないだろう。これに対して、長瀧氏は「科学者は…情報の混乱が起きぬようにする社会的責任」があるという。「情報の混乱」とは何を指すのだろうか。さまざまな異論が提示されるのが「情報の混乱」だろうか。それを隠そうとしたり、抑圧しようとしたりすることこそ「情報の混乱」の主要な要因ではないだろうか。

長瀧氏は異論を示すのを差し控え、科学的言明を統一し科学者は一致してそれに従う社会的責任があるという。普段はともかく危機的な事態だからと言うのだろうか。危機機的な事態だからこそ、多様な評価がある科学的情報を開示し、合意判断の質を高めるのが本来ではないだろうか。

(4)長瀧氏の「科学的事実」とは何か?

UNSCEARが合意したのは一つの「科学的知見」にすぎないが、長瀧氏はこれは唯一の「科学的事実」であるという。

「外部被曝に関しては、現在でも日本の原爆被爆者の調査結果が世界のゴールドスタンダードであり…UNSCEARの国 連に対する科学的な報告書では、100mSv~200mSv以上の放射線の被曝により、癌のリスクが直接的に増加すること、そして、これまでの疫学的研究では、それ以下の被曝線量においてリスク増加は認められないと報告している。これは国際的に合意された外部被曝に関する科学的事実である」。

「科学的事実」というと疑いのない唯一の事柄という印象を与えるがまったく異なる。広島・長崎の原爆の疫学調査については科学者によって多くの疑問が投げかけられ、国連が合意した説に対する科学的異論が噴出している。それはアメリカによる調査(ABCC=原爆災害調査委委員会)に日本が協力して(放影研)発展してきたもので、未だに日米協力の原爆疫学は意図的・非意図的な被害の過小評価があると批判され、裁判でも論じられ、近年は政府側敗訴も少なくない。

科学者から大いに異論が提示されているただ一つの事例から「科学的事実」が引き出せるだろうか。ひじょうに多くの地域住民が被曝した事例は他にないので、広島・長崎の事例を重視することができるだけではないだろうか。にもかかわらず、広島・長崎の疫学調査の成果に決定的に高い威信が与えられてきた。それはなぜだろうか。原発推進ムラ・役所と結合した科学者グループが自分達の見解を絶対だと独占する体制を作ってきたとの疑いを払拭することができるだろうか。

ここで、長瀧氏が「外部被曝に関する科学的事実」と言っているのも意味深長である。ABCC=放影研による原爆疫学は内部被曝はなく外部被曝だけで被害が起こったという前提で調査を続けてきた。だが、それには強く科学的異論が唱えられてきた。大いに被害が疑われる内部被曝を想定しない統計から、外部被曝だけの信頼できる科学的知見が出て来るだろうか。広島・長崎で内部被曝による被害はなかったというのは1つの学説に過ぎない。その立場にそって導かされたリスク評価が唯一絶対の「科学的事実」だろうか。

(5)長瀧氏のいう「科学的事実」はどこまで信頼性があるのか

チェルノブイリ原発事故の放射能被害についても長瀧氏はIAEA(国際原子力機関)、UNSCEARなどの国際機関が作成した報告書が国際的に合意された「科学的事実」でありそれ以外は科学の成果とするに足りないとする。今度はUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)だけでなく、IAEAが持ち出される。というのは、チェルノブイリで権威があるとされる調査はIAEAの主導化で行われたからだ。

だが、IAEA、及びそれと関連する国際機関が合意の基礎を築いた説が「科学的事実」であり、異論は科学的成果としないとするのは妥当か?ここではIAEAが長く原発推進に関わってきた機関であることを思い出さないわけにはいかないだろう。チェルノイリの被害につていはIAEAなどの評価に対して、多くの異論が提示されている。それら、放射線被曝の過小評価との反論に応答する議論がなされるのであれば、それは科学的言明として傾聴に値する。だが長瀧氏はそのようなことはしない。反論に応答せず自らが支持する説を唯一妥当な科学説だと主張するばかりである。

長瀧氏の論法に従うと、他説は政治的で自説は科学的との論は通用しないということになる。「意図的に論文を集めれば,正反対のことでも“科学的に正しい”と主張できる放射線の影響に関しては膨大な論文がある.自らの主張に都合のよい論文を集めると,個人的,政治的,社会的な主張であっても“科学的に”という言葉で主張できる」。これは長瀧氏自身に返されてしかるべき論述だ、

長瀧氏は「科学的に認められない」というのは「分からない」ということだが「認められた影響よりは少ないことを理解すべきで ある」という。そして喫煙などの影響より少ないという比較論にもっていく。だが広島・長崎にしろチェルノブイリにしろ「科学的に認められない」のは少なくて分からないのではなく、そもそも健康影響の全体が不確かでさまざまな評価があって分からないということと見るべきである。

たとえば、広島・長崎の疫学データを見直したD. L. Prestonら”Solid Cancer Incidence in Atomic Bomb Survivors”, Radiation Res. 168, 1-64 (2007)では、比較の土台となる広島・長崎疫学の従来の楽観論が大いにあやしいことが示されている。とくに子どもについてのリスクの見直しが必要だという。これについては、物理学者の田崎晴明氏(学習院大)の「放射線と原子力発電所事故についてのできるだけ短くてわかりやすくて正確な解説」の「子供の被ばくに気をつけなくてはいけないのは何故か」という部分を参照していただきたい。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/housha/details/earlyage.html

田崎氏は次のように述べている。

「原爆投下から 13 年間のあいだのガン発症についてのデータが不足していることは、LSS 集団の調査の大きな欠点の一つである。 つまり、幼い子供の発ガンについては、LSS 調査からは多くは学べないということだ。/この論文で示された、 20 歳前の発ガンの ERR が(1 Sv の被ばくで)20 というのはきわめて高い比率であることは言うまでもない。 被ばくしていない人に比べて、ガンを発症する割合が約 20 倍になる(うるさく言えば 20 +1 = 21 倍だが、きわめて誤差の大きなデータなので気にしなくていい)ということだ。 もちろん、もともとこの年齢でガンを発症する人はきわめて少ないので、実際の発症例の数は少ないのである。 ただ、それを踏まえた上でも、ERR が約 20 という評価は深刻だと思う」。

長瀧氏は「現存被曝状況の1~20mSvを超えると健康に影響があるという主張に、科学的根拠はない」と結ぶが、この日本語は事実上、20mSv以下のリスクを否定するかの如き表現である。これでは、LNT仮説を支持するICRPの立場にそうものかどうか疑問である。だが、そもそもICRPが大前提としている広島・長崎の疫学データを見直すと相当に高いリスクがあった可能性が示されているのである。

(6)専門科学者こそ決定権をもつという考え方

長瀧氏はUNSCEAR等の国際機関の討議で「純粋な科学の国際的合意」が得られると強調した上で、「ポリシー」へと論を移す。科学の国際合意からからポリシーの国際合意へ、そして国ごとの法律へという順番だと主張されるのだ。

「世界の情報を隈なく収集し,評価することがUNSCEAR の使命であり,原爆被爆者に関する放射線影響研究所からの論文も審査の対象となり,委員会として認められることで,国際的に合意された科学的事実となる……このUNSCEAR の報告に基づいて,防護に関する考え方がICRP で議論され勧告として発表される。……このようにして成立した報告書,勧告が,国連機関のIAEA,WHO 等を通じて加盟各国に情報として伝達され…」。

科学者の国際合意に基づきポリシーの国際合意が決定し、各国に降ろされるという。「その合意を日本国内の放射線審議会が受け入れを決定し,その後に,国としての具体的な法律の改正に取り掛かるのである」。UNSCEARの科学者―→ICRP―→各国政府という風に上から下へと降ろされていく一方向的なシステムが主張されている。専門科学者群が国際機関で決めた科学的知見に、世界中が従うべきだという。結局、ある専門科学者集団が何が真実かを決める絶対的な決定権をもつということになる。専門家の判断によって生死を左右される影響を受ける当事者は、黙々と従うしかない――そういう政策(ポリシー)決定のプロセス像となっている。

実質的には、①国際機関の決定に際して広島・長崎疫学調査の放影研や、放影研での長瀧理事長の先任者重松逸造が委員長を務めた②チェルノブイリ・プロジェクト(重松『日本の疫学――放射線の健康影響研究の歴史と教訓』医療科学社、2006年)の役割が大きい。国際機関の決定に際しては、日本の専門家がきわめて大きな権限を行使することになる。実はアメリカが強いた原爆被害の過小評価、内部被曝の軽視の路線にそったものだが、今では日本こそがこの立場の牙城というべき状況だ。

長瀧氏が最後に述べる「サイエンスとポリシーを混同しないこと」とは、こうした「科学的事実」の国際的決定プロセス像の提示と不可分のものだ。そこで、あらためてこう言われる――「ICRP の勧告にある計画被曝状況の公衆被曝限度の年間1 mSv を超えると健康に影響があるという主張や,現在話題となっている現存被曝状況の1~20 mSv を超えると健康に影響があるという主張に,科学的根拠はない」。つまり、専門科学者の国際機関決定に反する意見は「科学的根拠がない」と。

長瀧氏の文章は、最後に「日本医師会 医の倫理綱領」を取り上げている。「医療行為は人類愛に基づく自発的行為で,医師は良心と医の倫理に従って医業を行うものである」と謳われている。医療関係者として人類愛に基づき一人ひとりの患者さんに接するような思いやりの気持ちで被害を受けた方々に対応することが,安全と安心につながるのであることを確信している」。

だが、この引用では現代医療倫理(生命倫理)の根本前提の一つが抜け落ちている。現代医療倫理の根本前提は医師・医学者・生命科学者が専権をふるうことにより他者の生命を支配してしまうことを防ぎ、当事者、とくに弱い立場にある人々のいのちをどう守るかという点にある。第二次大戦の医学・医療が教えた重要な反省知であり、医療倫理・生命倫理でつねに考慮に入れられるべき観点である。

だが、現代の医療倫理のこの前提は、広く現代の科学技術倫理にも及ぼされるべきものだろう。これまで原発=放射線被曝に関わる科学技術は、医療倫理で当然とされるような当事者や非専門家の関与の必然性が理解されてこなかった。

(7)委員会の構成

では、原発=放射線被曝に関わる科学技術が、倫理的な問いかけの例外領域(治外法権領域)にされてしまったのはなぜだろうか。たとえば、「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」や、その親委員会の「放射性物質汚染対策顧問会議」はなぜこのような人員構成になっているのだろうか。なぜ、福島原発事故の最大の事故責任者ともいうべき原子力委員会委員長の近藤駿介氏や、放射線医学総合研究所放射線防護研究センター長、東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻客員教授の酒井一夫氏がどちらの会議でも10人足らずのメンバーの一人になっているのだろうか。

酒井一夫氏は現職になる前には、電力中央研究所で放射線被ばくの健康影響に関する研究を行ってきた。だが、それは低線量放射線は健康を増進する機能をもつということを証明しようとする意図にそったものだった(「低線量放射線生体影響の評価」『電中研レビュー』53号、2006年3月)。

http://www.denken.or.jp/research/review/No53/index.html

この報告書の「巻頭言」で京都大学原子炉実験所放射線生命科学研究部門教授の肩書をもつ渡邉正己氏はこう述べている。

「勿論、得られた成果は低線量放射線の生体影響の本当の姿を理解するために大いに役立ちますが低線量放射線を生命に対するリスク要因として切り出すことに大きな意味はないといえます」。

「我が国は、この分野の研究で世界をリードしてきたことがわかっていただけるものと思います」。

また、「はじめに」では、電中研低線量放射線研究センター長の石田健二氏がこう述べている。

「思い起こせば、その当時、放射線ホルミシス効果という言葉に刺激を受けて数人の工学系の職員が大胆にも自らの手でこのホルミシス効果を確かめたいと思ったことが、当所における低線量研究の始まりでした」。

また、「おわりに」では電中研原子力技術研究所長の横山速一氏による次のような一節がある。

「自然の放射線と共に生きてきた地球上の生物には、放射線に対する基本的な防御機能あるいは適度な放射線の影響を上手く活用する機能が備わっていると考えることは不思議なことではないでしょう」。

電力会社の資金でこのような立場で研究を進めてきた責任者が、放射線医学総合研究所放射線防護研究センター長、および東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻客員教授という肩書でメンバーに入っている。加害者側の利益になるような研究を進めてきた科学者が政府の方針の決定に強く関与していると受けとられてもしかたがないのではなかろうか。

長瀧氏の考える「科学者の社会的責任」の考え方に従えば、「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」でこのような人物が大きな役割を果たすことは当然ということになる。しかし、多くの国民がこれに納得できない理由をもはやこれ以上説明する必要はないだろう。

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